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週刊随筆「ポトス」




 どんなに感動する最新曲よりも、君の声をもう1度聞きたい。

 どんなに感動する最新映画よりも、君の元気な姿をもう1度見たい。




 人は何かよりどころを必要とす。

 宗教や思想とは、人が何かよりどころを必要とした結果生まれたものではなかろうか。

 そう信じることによって心を楽にするために。




 幸せとは自由であること、

 健康であること、上や渇きのないこと

 自分が

 他者が

 そして、全ての生きとし生けるものが

 自由であり、健康であり、飢えや渇きがないのなら、それは幸せなのである。

 逆に、もし、その1つのうちどれかが欠けているのなら、

 それは幸せではないのである。




 愛するものが

 生きていて

 元気でいて

 幸せであること

 これ以上の幸せはない

 愛するものが

 この世を去る

 これ以上の悲しみはない

 愛するものが

 この世にいない

 これ以上の寂しさはない

 だからこそ




 いかなる人間も自分自身の掟に従って自由に生きたいと思う。

 フリードリヒ・フォン・シラー「メッシーナの花嫁」より

 そして、人間だけではなく全ての生きとし生けるものも自分自身の掟に従って自由に生きたいと思う。




 この地球は、もしかしたら、宇宙において唯一生物が生存可能な星であり、私たち生き物にとって、宇宙一大切な存在かもしれない。

 しかし、その私たち生きとし生けるものにとって宇宙一大切なものであるはずの地球を、人間は全く大切にしようとしない。

 地球という存在がなければ、私たちは生きることができないにもかかわらずである。

 自分で自分の大切なわが家を痛めつけているようなものである。

 そして、将来、家に住めなくなり家がないことを嘆いても、そのときはもう時すでに遅しなのである。




 いろいろな古典を読んでいると、時代や国が変われど、結局、人間は突き詰めて考えると同じようなことを考えるのだと感じた。

 ということは、それはその人の特別な考えではなく、元々遺伝子によって、突き詰めて考えると同様の結論に至ることを定められているということではないだろうか?




 問題を解決できない場合、その原因は以下の3通りに分類できる。

 1つ目は、問題を解決する能力がないことである。

 2つ目は、問題を本当に解決するつもりがないことである。

 3つ目は、問題を解決する能力がなく、かつ、問題を本当に解決するつもりもないことである。




 ブッダのことばを記した「スッタニパータ」の大いなる章の矢の章に

 人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものだ」とさとって、嘆き悲しみをされ。

 という言葉がある。

 「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」という点は理解し納得できるが、それを理解し納得しても嘆き悲しみを去ることなどできない。

 そもそも、大切なものがこの世から去ったとき、「かれはもうわたしの力の及ばぬものだ」と思うことによって嘆き悲しみを去ることができるものなどいるのだろうか?

 この世からさったものが大切な存在でなければ、「かれはもうわたしの力の及ばぬものだ」と理解し納得し嘆き悲しみを去ることも可能である。しかし、このよから去ったものが大切な存在である場合、「かれはもうわたしの力の及ばぬものだ」と理解し納はできるが、だからといって得し嘆き悲しみを去ることは不可能である。

 「愛する存在がこの世から去り、嘆き悲しまないものはいない。愛する存在がこの世から去ったとき、嘆き悲しむのは必然である。それを避けることはできない。

 それでは、私たちはどうするばいいのか?悲しみを抱きながらどう生きればいいのか?

 さとることなく、悲しみを抱きながら、ときどき懐かしみながら、そきどき心の中の愛する存在に語り掛けながら、愛する存在に出会えたことに感謝しつつ、生きていくしかないのではないだろうか?

 それが正解だと心から思えないが、心から正解だと思えるような答えは一生でない、または、どんな賢者も出すことはできないように思える。

 とりあえず、さとることなく、悲しみを抱きながら、ときどき懐かしみながら、そきどき心の中の愛する存在に語り掛けながら、愛する存在に出会えたことに感謝しつつ、せいいっぱい生きていきたい。




 私たちは他者(人間も人間以外の生き物も)の幸せを勝手に決めつけるべきではない。

 私たちは自分の幸せを他者に勝手に決めつけられたいだろうか?

 自分の幸せを他者に勝手に決めつけられたいと望むものなど存在しない。

 他者(人間も人間以外の生き物も)も同じである。

 私たちは他者(人間も人間以外の生き物も)の幸せを勝手に決めつけるべきではない。




 「かわいそう」と思うとき、上から目線で「かわいそう」と思っているようなときがないだろうか?




 いいことをすれば良い気持ちになる。

 しかし、それは、裏を返せば、自分がいいと思ったことをしてよい気持ちになっているということではなかろうか?

 自分がいいと思ったことは本当にいいことなのか?もし、それがいいことではなく実はわるいことだった場合、それはすなわち「自分がいいと思っている実はわるいことをしてよい気持ちになっている」にすぎない。

 そのようなことを防ぐためには、疑念を抱くことなくよいことをしようとするのではなく、よいことをしようとする際は一瞬でも疑念を抱くべきである。

 緊急の場合は疑念を抱く必要はない。行為のあとに考えればいい。しかし、もし、そうでないのなら、一瞬でも疑念を抱きよくよく考えるべきである。

 私たちは神ではないのだから、いいと思うことのすべてが真にいいことであるはずがない。

 私たちは、いいことをすることに満足するのではなく、真にいいことをすることに満足しなければならない。




 良かれと思ってしたことが実は良くない結果をまねくことが多々ある。

 その理由は、何が善で何が悪か知らないからである。

 まちがった善悪のものさしで良いと思ったことをしても、良くない結果になるだけである。

 その際、1番つらいのは、良かれと思ってしたことが、とりかえしのつかない結果になってしまったときである。

 良いことをすることは大切なことである。

 しかし、そのためには、まちがった善悪のものさしではなく、正しい善悪のものさしを持つ必要がある。

 もし、良いことをしたいと思い、実際によいことを行い、そして良い結果を望むのであれば、正しい善悪のものさしを持たなければならない。

 良かれと思ってしたことが、とりかえしのつかない結果にならないようにするためにも。




 山本有三氏の「生きとし生けるもの」を読み心に残った言葉

 「ぼくは自分の行く道を、他人に線をひいてもらいたくはないのです。他人のひっぱった線の上をぼくは歩いていきたくないんです。」

 「いいや、わがままというのは、子供がしたいようにすることではない。子供の意思に反して、親のしたいように子どもをしつけようとすることこそ、かえって、ほんとうのわがままなのだ。」




 この世で1番の幸せは、愛するものが幸せであることである。

 この世で1番の不幸は、愛するものが不幸であることである。

 この世で1番の悲しみは、愛するものがこの世から去るときである。

 そして、この世で1番かけがえのない日々は、愛するものと過ごす日々である。




 大切なものはなくして初めて気づくものです。

 そして、今あなたとともにあるものも、なくして初めて気づく大切なものなのです。

 なくしてから、その大切さに気づいてはなりません。

 今、この瞬間から、その大切さに気づかなければなりません。

 そして大切なものであるのなら、大切にしましょう。




 愛するものの死ほど悲しいことはない。

 しかし、愛するものと過ごした時間ほど幸せな時間もない。

 愛するものと過ごした幸せな時間があるからこそ、愛するものの死が悲しいのである。

 愛するものと過ごした幸せな時間がなければ、その悲しみは存在しない。

 私たちは愛するものと永遠にともにいることはできない。なぜなら、我々は死ぬことを避けられない存在であるからである。

 もし、私たちが神に、未来において悲しみがまっているが愛するものに出会いたいか、それとも出会いたくないかと問われたら、迷わず愛する者と出会う方を選択するはずである。

 そうであるのなら、私たちの愛するものを失った今の悲しみは、愛するものに出会ったときからの必然の結果なのである。

 愛するものとの幸せな思い出があるから悲しみを感じるのである。

 もし、神が私たちに、悲しみを消し去ることができるが、幸せな思い出も一緒に消えるがどうしたいかと尋ねたとしたら、私たちは迷わず拒否するだろう。

 私たちの胸の中の悲しみは、愛するものと幸せな時間を過ごした証なのである。




 哲学者とは悩み苦しんだ人間である。

 そして、哲学とは悩み苦しんだ末に出来上がった結晶である。




 私たちが生きている今日は、昨日惜しくもこの世を去った人々が明日も生きたいと願った1日である。

 そして、私たちが迎える明日は、今日この世から去る人々が明日も生きたいと願う明日である。




 古典をいくら読んでも自分にぴったりの答えはのっていない。

 ヒントだと感じるものはのっているが、答えは見つからない。




 やはり自分にぴったりの答えは、自分で考え導き出すしかないのである

 アメリカ独立宣言に次の言葉が述べられている。

 「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。」

 この言葉が正しいものであれば、次の言葉も正しいはずである。

 「すべての生きとし生けるものは平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。」

 もし、私たち人間が、「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。」ことのみを認め、「すべての生きとし生けるものは平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。」ことをもし認めないのだとしたら、私たち人間はなんと醜悪な生き物だろうか?私たち人間は、そのような醜悪な存在であることを望むような存在であろうか?答えは否である。




 私たち人間は、私たち自身が醜悪だと認めるような存在になりさがってはならない。なぜなら、私たちは人間だからである。

 偽善とは善の偽物(にせもの)である。

 ゆえに、偽善を行いたくないのであれば、真の善とは何か?そして、真の悪とは何か?を私たちは知っていなければならない。

 私たちは、真の善、つまり本当の善を知っているのだろうか?また、真の悪、つまり本当の悪を知っているのだろうか?

 もし、私たちが真の善及び真の悪を知らないのであれば、私たちが善いと信じて行っている善は偽善であり、私たちは偽善者である。

 真の善について知るためには、真の善とは何かを考えることなしに知ることはできない。同様に、真の悪について知るためには、真の悪とは何か考えることなしに真の悪を知ることはできない。

 偽善者とは、真の善及び真の悪について知らない者であり、それはつまり、真の善とは何か?真の悪とは何か?問いかけ考えたことがない者である。

 もし、私たちが真の善とは何か?真の悪とは何か?考えたことがないのであれば、私たちは真の善及び真の悪について知っているはずもなく、もし事実、私たちがそうなのであれば、私たちはまごうことなき偽善者なのである。




 自由を愛さない生き物なんていない。

 私たち人間において、不自由を望む人間がいるだろうか?自由を奪われることを望む人間がいるだろうか?

 動物において、不自由を望む動物がいるだろうか?自由を奪われることを望む動物がいるだろうか?

 鳥において、不自由を望む動物がいるだろうか?自由を奪われることを望む動物がいるだろうか?

 虫において、不自由を望む虫がいるだろうか?自由を奪われることを望む虫がいるだろうか?

 私たち人間が、不自由を望ます、自由を奪われることを望まないように、動物たちも、鳥たちも、虫たちも、生きとし生ける全てのものは、不自由を望ます、自由を奪われることを望まない。

 なぜなら、その魂が自由を愛しているからである。

 自由を愛さない生き物なんていない。




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